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クロアチア−ちょこっと書き・その1

今回のW杯も日本代表はクロアチアと同じ予選グループになりましたね。
まさに対クロアチア戦を控えてちょうどタイムリーな話題っぽいので
クロアチアに行ったときのことをちょこっと書かせて頂きます。

こんな感じの国なんだ〜 という風に思っていただけると幸いです。

投稿者 ながむ : 19:31 | 海外-ドイツ・オーストリー・東欧
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私がクロアチアに行ったのはまさに4年前の春でした。
その前々年の夏から初秋にかけての一カ月、ウィーンにいた時、
南駅でセルビアのベオグラード・エクスプレスをみかけました。
それまでユーゴ内戦やボスニア紛争で、
ウィーンから東欧を抜けてトルコに至る特急が休止となり
国際時刻表にも列車は無期限運休と記されていました。
それが戦争終結後、人々は復興の道を歩み始めていたのです。
ウィーンにセルビアの列車が現れたのは、人の生活が安定してきた証拠です。

それで様子見にスロベニアの首都、リュブリャーナまで小旅行してみました。
十分安全面や受け入れる側の体勢も整っていると判断し、
思いきってクロアチアに行ってみる事にしました。



ドゥブロヴニクは内戦前はヨーロッパ各地から人の集まるアドリア海のリゾートで
美しい景観と歴史に彩られた世界遺産の街でした。
かつて近世には、同じくアドリア海で反映したヴェネツィアと覇権を争っていました。
今なお中世の城壁に囲まれた市街と天然の良港とを併せ持ち
「アドリア海の真珠」とたたえられた自由都市でした。

内戦では背後の山からや海に浮かんだ艦隊からの攻撃にさらされ
町の多くの部分が破壊され、4年前はまだユネスコによる
「危機に瀕した世界遺産」の看板が設置されていました。
町のシンボル、オノフリオの噴水や聖ヴラホ教会なども修復中でしたし、
グルージュやボニノヴォ地区の大型リゾートホテル(リベルタスなど)も
無残な廃墟となっていました。


私は19世紀のハプスブルク帝国時代の面影を残すインペリアルホテルに予約を入れました。
城壁内の旧都市にはホテルはありませんし(禁止されています)、
ここが城門(ピレ門)に一番近いホテルでもあったからです。
ただ、すべては内戦前のことであって、まだ破壊されずに残っているかは分かりません。
おそるおそるFAXで宿泊したい旨、送ると、翌日返事が来ていました!
やったー! 内戦終結万歳!

そして日本からアリタリアでローマに。
接続が悪く出発は約20時間後と言う事なのでローマで一泊しました。

ドゥブロヴニク空港に着いてみても、夜なので景色は良くわかりませんが、
空港からバスでの道のりは岩山の間の道を走っている模様。シュロの樹が南国風。


さて、ピレにバスが到着し、予約したホテルに行ってみると、
清潔だけれどなんだか質素な部屋・・・?
翌朝明るくなってみるとやっぱり質素な廊下やエントランスで、
「ホテルを間違えたんだろうか・・・?」と思ったのですが
ちょっと離れた広間に朝食に行ってみると、
やっぱり高級ホテルらしい慇懃な態度の黒服が何人も・・・
食器も上等だし、銀の頭文字入りのカトラリーも立派だし
上品で優雅な朝食が取れました。

腑に落ちないまま観光の為に出かけてみると謎が解けました。
私が思い浮かべていた建物は爆撃で破壊されたままで、
我々が出てきた建物の後ろに偉容を見せていました。
どうも近くの安宿を買い取って、暫定的に営業をしていたようです。
その後、3年前に修復は終わって現在はヒルトン系になっているとの事です。


**以下、別エントリに続きます。

メモ:
当時の物価なので変わっているはずですが
空港からバスターミナルへはクロアチア航空のバスで20クーナ。
タクシーなら交渉次第で140クーナぐらいから。
グルージュのバスターミナルからピレへは3番・8番・9番のバスで。


ドゥブロヴニク旧市街
クリックでちょっと拡大。
左・中:城壁の上からの眺め。青い海と赤い屋根。緑の島々。
右:旧市街の旧港。ここからドゥブロヴニクの繁栄は始まりました。

投稿者 ながむ : 2007年1月8日 19:33

 
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